私たちの生活をめぐる空間や体験は日々拡張されている。私たちが暮らす「地域」や「環境」のなかで、実体としての私たちの「身体」は、どのように美しいのか。
 そもそも芸術作品が、与えられた条件を別の形に変換し体験させる装置としての力を持っているのであれば、「地域」「環境」といった条件を「身体」を通じて表現することで、私たち自身の暮らしのあり方により切実に刺激を与えることのできる作品ができるかもしれない。それはかつて、「祭礼」と呼ばれていたものに近い効果を発揮するはずだ。
 建築史・建築論・環境設計を専攻していた経験を元に、作品制作の対象とする「地域」(歴史・伝統文化・風習・暮らしなど)や「環境」(光・音・風・熱など)に対する感覚的リサーチおよび考察をもとに、それらの諸条件を鑑賞者に、より強力に体験・実感してもらうような空間作品・空間体験を製作している。
 私たち自身が有する「身体」を元にした表現領域(音楽・舞踊など)との協働による制作を行うことで、より切実な空間体験を目指すとともに、「地域」や「環境」のなか、私たちは「身体」を通じていかに生きているのか、を投げかけるような作品づくりを目指している。
モノオペラ《いちとしいけるもの》に寄せて

 角直之と永井秀和のオペラで美術を担当するのは『小劇場オペラ《出雲阿国》』(2017〜/全国で7回上演)および『オペラ《箱》』(2021)に続き3作目となる。前作を振り返りながらこの文章を書くうち、私が今作でやろうとしていたことが、私自身ようやくわかってきた。

1.《出雲阿国》と《箱》
 建築史・建築論を手がかりに空間を構想してきた私は、《出雲阿国》では「歴史という書物の中にバラバラに配置された『出雲阿国』の断片をつなぎあわせひとつの像に仕上げようとする、音楽と文学の働きに気がついた。その働きは(中略)神社建築の最古の姿、もとい信仰の場所が建築化されるさらに前の姿」に通じているとし、神籬・磐境を引用した。《箱》では、私たちの現代的な「住まい」の姿を決定付けたと考えられるロンドン万博(1851年)のクリスタルパレスを引用した。「理想的な『場所』は、構造(中略)とテクスチャ(中略)で構成されるかもしれない。」両者に共通するのは、着目したモチーフのもっとも素朴な状態をいかに未来に向けて構想するかということだ。

2.《いちとしいけるもの》
 さて、今作のモチーフは私たち自身。すなわち「身体」のもっとも素朴な状態を未来に向けて構想しようとしている。できたばかりの台本・楽譜のみを手がかりに製作に取り掛かるのは前作までと同様だが、今作で直ちに想起したのはバレエ・リュスの『ペトリューシュカ』。V. ニジンスキーが「ペトリューシュカ」を演じ、のちに『春の祭典』の振り付けを担当したことへの憧れ・オマージュが原動力の一つとなった。同時にマン・レイほか美術家たちの身体への眼差しへの反抗をも試みた。建築を信じ、その途方もない圧倒的な力への畏れと敬意を抱きつつ、しかし今は私たち自身が自ら輝くことのできる未来を夢見たい。

3.「身体」および「いちとしいけるもの」について
 私たち自身が輝くための空間表現への門が開かれた。ということで、今作にはダンスの力が必要であると確信し、中村瑞乃さんに協力いただいた。「建築がつくるような『囲う』空間に対し、彫刻がつくるような『放つ』空間とりわけ、あらゆる空間の『中心』たる身体をもとに、もっとも根源的に純粋に空間を構想し実現していると考えられる、ダンサーたちの空間世界」を頼りにした。デッサンドールをもとに、私たちに与えられた身体を凍結し同時に解体、再び結集させることで実現する「いちとしいけるもの」。それは私たちの愛する音楽のことであり、輝くべき私たち自身のことなのかもしれない。
『あうん』に寄せて
 建築がつくるような「囲う」空間に対し、彫刻がつくるような「放つ」空間とりわけ、あらゆる空間の「中心」たる身体をもとに、もっとも根源的に純粋に空間を構想し実現していると考えられる、ダンサーたちの空間世界。
 身体造形が放つ空間、それが立ち上がる瞬間、すなわちダンサーとダンサー以外の境界線の美しさに着目して制作しました。​​​​​​​
『オペラ《箱》』に寄せて

 舞台上には、簡素な(作りかけの)壊れかけの“箱”らしきものと、(作りかけの)壊れかけの領域を示す“スクリーン”とで構成された、小さな空間装置をひっそりと設置します。そうすることで本作品を、わたしたち自身の日常の姿をそのまま示そうとするデモンストレーションと位置付けます。
 わたしたちが日々暮らしている集落、ひいてはわたしたち一人ひとりが送る日々の住まい方における、もっとも理想的と思われる状態を、どのように(表現するか)表現しないかの実験ということです。

 ある「箱=世界」は、その主体である中心を有し、一定の広がりをもち、領域を定めることで実現します。解放に向かうことだけでなく、領域を定義することが重要です。
 箱が解体され、「大地」と「天空」とのあいだで「神的なもの」との関係を探る、私たち「死すべき者」が、いかに大切なものを定め、広がりを確認し、領域を定めて生きていくか、私たち「死すべき者」が生きるということ、すなわち「住まう」ということとはどういうことなのか、いかに自身のたたずむ「場所」を見つけ立ち上げていくのか、という物語が、今回の美術を通して込められています。

 あまりに優美で、同時に矛盾と緊張感を帯びた、途方もなく美しい台本・音楽が、実は通時空的な一般性を備えた世界の記述であり、さらに、高度に個人化が進む現代の、わたしたちが住まうリアルな世界を穏やかに表現していることに着目し、C.ノルベルグ=シュルツの集落論と、その背景となったM.ハイデッガーの芸術論とを参照することで、私が取り組むべき課題の一端を掴むことができました。
 理想的な「場所」は、構造(“箱”らしきもの)とテクスチャ(“スクリーン”)で構成されるかもしれない。

 実に瞬間的で、いまを示すしかないものである舞台の性質に着目し、今回の制作では、“箱”の運動・時間、その瞬間を表現するため、作っていた美術の製作を、途中で止める、ということをしました。作る過程をギリギリのところで止める(作りかけで本番を迎える)ことで、完成された箱が解体されていくある瞬間を捉えようとしました。
 C.ノルベルグ=シュルツ最後の著作に与えられた副題『Presence, Language, Place』に示されたように、わたしたち自身=presence、台本・音楽=language、舞台・劇場=placeが共鳴するような作品を目指しました。
『小劇場オペラ《出雲阿国》福井公演』に寄せて

福井公演のための3つの水のモチーフ
■水と越前和紙
 「土地は痩せているが清らかな水に恵まれている。農耕ではなく紙を作りなさい」と言い残して消えた女性の伝説から始まる福井県の誇る紙づくり。5つの集落中に行き渡る川と水路の流れを支えに、ほとんどの工房が水路か井戸水で紙を漉いている。作業場は稼動しはじめた途端、清らかな水をいっぱいに湛えた、豊かな空間に変容します。そんな、水に恵まれた土地が生み出した越前和紙を使用します。
■水と能舞台
 古くは能舞台は野外に作られており、灯りのない野外での公演のため、かすかな光を効果的に拡散させるよう、舞台の周囲に水を配したと言われています。室内に能舞台が作られるようになったのちも、このころの名残で『白洲(白い砂利が敷いてあるところ)』ができました。能舞台と観客の距離や向きなどの関係は、水の領域、白洲の配置によって、様々に変化してきたのです。
■水と出雲阿国
 初演以来全ての公演で、現地で撮影した水の映像を美術に使い、先日の東京公演では実際に舞台上に水を張りました。無意識に「水」を多用してきましたが、今回改めて作品に取り組むうちに、「水の粒子で満たされた大きな空気の塊」がゆらめき躍動する様を、私が本作から感じとっていることに気づきました。今回はさらに出雲大社の建築的特性を重ね合わせ、新しい水の粒子のふるまいを生み出します。

福井公演のための美術・空間構成
■立面方向への水の展開
 空間に横たわる白のスクリーンは、柔らかな表情を持った無数の和紙の断片を組み合わせた、それ自体一つの大きな風景装置です。さらに照明効果・映像効果を重ね合わせることで、雲、風、光などに応答して時事刻々と移ろう、有機的な水のテクスチャを表現しました。
■平面方向への水の展開
 水(白洲)の領域を操作することで、「舞台と客席が明確に仕切られ、全体がよく見える」西洋型の観劇空間を離れ、現代の常設劇場のうち能舞台のみが継承する、「舞台と客席が複雑な関係を持ち、観客も身体の向きを変えながら見る」日本固有の劇的空間体験を創出します。
■空間への水の展開
 八重の雲をめぐる物語の終結部では、出雲阿国が見た、その彼方に広がるであろう傾奇者の地平へと、決意とともに歩み消えゆく姿を表現します。越前和紙の作る立面的な水面と、能舞台の作る平面的な水面に加え、出雲大社の空間構成や参道の軸線を参照し、ハピリンホールを「水の粒子で満たされた大きな空気の塊」で満たします。

『小劇場オペラ《出雲阿国》』に寄せて

 今回の演目の題材である出雲阿国という人物については、はっきりとした記録が残っておらず、様々な断片的な言い伝えによって現代まで語り継がれているのみだという。
 島根での初演の際、出来たばかりの楽譜と台本、ホールからいただいた舞台配置図を手元に稽古場に顔を出していくうちに、そこで行われている、歴史という書物の中にバラバラに配置された「出雲阿国」の断片をつなぎあわせひとつの像に仕上げようとする、音楽と文学の働きに気がついた。

 その働きは、建築史の中に登場する磐境(いわさか)とか磐座(いわくら)の働きに共通するように感じられた。神社建築の最古の姿、もとい信仰の場所が建築化されるさらに前の姿のことである。
 人々は、森の中の何でもない(ように一見見える)場を見つけ出し、仮設の岩で特別な領域をつくりだした。そうすることでその場所を神聖化し、そこに信仰の断片を結集させることで、強力なエネルギーを体験する場所としたのである。ここに屋根をかけ始めたのが神社建築の始まりとされている。

 さて、アメリカの神学者Harvey Cox によれば、「祭り(ritual-festivity complex)」とは「神と人との交流」である「儀礼(ritual)」と「人と人との交流」である「祝祭(festivity)」との複合概念である。
 柳田國男が『日本の祭』のなかで、「祭りから祭礼へ」と論じたように、今日の“祭り” は「儀礼」の要素が薄れ、「祝祭」のみが強調される「祭礼→神なき祭り」となっている。なかでも「イベント」とは、福原敏男(武蔵大学)によれば「祝祭」から信仰的要素が失われ、それが極度に商業化したものである。
 Martin Heidegger のいうように、芸術作品の根源が、「大地・天空・人・神」をめぐる場所の顕在化であるとすれば、空間に芸術作品が立ち現れるとき、「イベント」は「祭り」に接近する。

 今回の企画では、音楽作品と文学作品による「出雲阿国」像に、空間的演出を加えることで、舞台場に「出雲阿国」を結集させ、皆さんにそのエネルギーを体験していただくことを目指している。

『秋月の階調』に寄せて

 新型コロナ感染拡大による外出頻度の減少や、住民同士の交流の希薄化の問題に対し、野外で音(音楽)と光(美術)に触れることを通して、夕暮れどきから満月が出るまでの利根運河の音環境・光の状態の移り変わりを体験していただき、地域の持つ環境資源や魅力、空間の活用法を再発見するきっかけをつくることを目的とした。

 日常的に当たり前に過ぎ去る自然環境の変化に、刺激を加え揺らぎを作り出す演出装置として「音楽」と「詩」を採用し、委嘱歌曲作品を中心に、テノール・チェロ・ピアノによる約1時間のコンサートを行った。
 音響装置を用いずに、アップライトピアノを用いるなど素朴な音楽を通して、川の流れや虫の声など、利根運河の音環境に感覚を向けていただいた。
 また、照明装置を用いずに、上演中に日没を迎え終演直後に満月が昇る時間設定にすることで、時の移り変わりによる空や水面の揺らぎなど、利根運河の光の状態の微細な変化を体験していただいた。

『The 2nd. World Music Festa』 に寄せて

 音楽・楽器・踊り・衣装・工芸品・など、いずれを取り上げても、その土地に固有の植物、土、水などに由来する、独自の素材によって作られています。
 それらの素材が、その土地に伝わる人の手・独自の技術により美しい造形物へと変容し、唯一無二の質感や色彩を放つこととなります。

 これらの造形物の一つ一つが、あるひとつの小さな「世界」であり、それらの集合が生活を支え、空間となり、建築となり、街となり、大きな「世界」となるのではないでしょうか。

 赤坂の森に隣接するこの空間に突如現れた無機的な黒のスクリーンは、小さな「世界」のもつ質感や色彩を際立たせるための背景装置として働きます。
 拡散された美しい質感と色彩が鬱蒼と茂る、小さな「世界」の森に包まれる体験をしていただけたら幸いです。

第3回 アーツアンドスナック運動 『なめとこ山の熊のことならおもしろい』に寄せて
 東京の上野湯島-池之端仲町の商店街一帯を活用したアートイベント「アーツアンドスナック運動(以下 AnS)」の一環として令和4年11月に上演された演劇作品『なめとこ山の熊のことならおもしろい』(以下 『なめとこ山』)を取り上げる。これまで3回開催されたAnSにおいて私は、第1回目から企画者あるいは作家として携わってきた。今回取り上げる『なめとこ山』については、いち観客としてまたその後私が話者として参加したトークイベントのための情報収集として観劇した。

第3回目となるAnSのメインプログラムとなる本作品『なめとこ山』はもともと、福島県を拠点にしている劇団「ほしぷろ」(主宰:星善之)による作品で、福島での初演の後、第 12回せんがわ劇場演劇コンクールにて俳優賞・演出家賞を受賞した作品の再演となる。それまでAnSのコンテンツはいずれも徹底的に池之端仲町においてサイトスペシフィックな作り方をしてきており、他所の文脈で創作された作品を再演という形で上演するということの意味が掴めずにいた。宮沢賢治の作品というモチーフが既に完成された世界を有するということ、また演出である星自身の福島での生活・経験に基づいた作品であるというところに、不安を抱いていた。

ところで、第1回のAnSで、私は2人の作家にそれぞれ依頼し、インタビューを使用した映像作品の製作と、トーク形式のイベントとを開催していただいた。両者に共通するのは、上野湯島-池之端仲町というまちが、あらゆる世代・業種・国籍の人々が、時間的にも空間的にも極めて複雑に重層し、大変読み解きづらく把握しづらい(地元の誰も把握できていない) 街であることを示すものであり、その実態の片鱗を作品化してもらった。具体的には、外国人労働者たちが世代を超えて池之端仲町を自分たちの街だと深く愛する姿や、飲食店の経営者たちがそれぞれ趣のあるかつての仲町の様子を愛する一方「夜の繁華街」と形容されることになる現状との間にある複雑な心境を表現してもらった。

さて、今回の「なめとこ山」を観てみると、当初の不安は全く消え去り、まさしくこの場所で上演されるべき作品であることを強く感じた。 宮沢賢治が描こうとした、ある「場所」をめぐる自身と他者のせめぎ合い(もしくはせめぎ合ってすらいない)というモチーフは、時間を超え、福島で想起され、東京でも我々の元に迫ってくる。
「30年住んでいるのに!まだ他所者ですか!」演目中のセリフでの忘れられないひと言。これまでのAnSで見てきた、それぞれがこの街を自分の街として愛している、池之端-仲町を構成するあらゆる属性の人々の物語を見ることができた。まさにこの街の人々にこそ見られるべき作品であった。この観劇体験を通し、ある一つの芸術作品が、根源的なところで我々一人ひとりの世界に通ずることさえできていれば、時間を超え、空間を超え、私たちの生活に刺激を与える力を持っているということを改めて実感することができた。
第2回 アーツ&スナック運動『オンサイト野外パフォーマンス《雁》』に寄せて

 本作品では、森鴎外の『雁』原作中に表現された池之端仲町界隈の様子を表した言葉をもとに台本を作成し、その言葉を背景・舞台に、2人のオペラ歌手(訪問着をまとった女と書生風の着こなしの男)が即興で歌唱しながら交差することで、互いが予期せず出会い、すれ違い、別れるまでの様子を表現しました。

 前日に開催された「オンライン朗読スナック『雁』」に対応し、「オンサイト野外パフォーマンス『雁』」と銘打ち、双方合わせ、感染症拡大に伴いに各方面で取り組みが急速に進んだ内部空間・外部空間のあらたな活用方法を、オンライン・オンサイトの両面から試みるデモンストレーションとして開催されました。

 とりわけ外部空間の活用に焦点を当てた本作品では、アーツアンドスナック運動で同時に検討・実験が進められていた「ガイトウスタンド」を常設の客席、路面を舞台、街並みを背景装置に、演者と鑑賞者と通りすがりの人々とが入り乱れ、各々の活動や視線が複雑に交差する、不思議な空間を路上に生み出しました。

 また、無数のネオンの光が輝き、煌びやかでしかし怪しげな印象を抱く方も多い現在の仲町通りですが、この地にゆかりの文学作品をモチーフとし、当時から続き現存する老舗の店舗や地名、風景、出来事や想いを作品中に織り込むことで、空間のみならず時間をも跳躍した、複雑な状況を生み出しました。
『オンサイト野外パフォーマンス《雁》』に寄せて

 上野・池之端-仲町通りは、本公演のモチーフとなった森鴎外の『雁』をはじめ、さまざまな小説の舞台になっています。当時から続く老舗の店舗や地名の中には、今もしっかりと受け継がれているものもり、無数のネオンの光が輝く煌びやかな印象を抱く方が多い仲町通りを、文化的な切り口からじっくりと体験していただく時間を作りたいと、本公演を企画しました。
 森鴎外の小説『雁』で用いられた「言葉」をコラージュし、小説中にあらわれる「男女のすれ違い」や「散歩」をモチーフとした台本をもとに、2人のオペラ歌手が仲町通りの端と端を起点に、即興で歌唱しながら交差します。
 森鴎外・地域・道ゆく人々・歌手・作中人物、交錯する彼らの様々な眼差しの中で、原作『雁』や「仲町」にゆかりの現象を巡っていくことのできるような作品を目指しました。

『第1回 アーツ&スナック運動』に寄せて

 アーティストたちの仕事は、ある対象に内在する静かなエネルギーを解放させる働きを持つ。都市を対象とするのであれば、その場所の内にうごめくエネルギー源に接触し、日常の風景を引き裂く。アーティストにより裂け目から引きずり出されたエネルギーは作品の形を帯び、そこに住まう人々を最も輝かせる劇場的都市空間の背景装置としてその場所にインストールされる。

 「アーツ&スナック運動」では、様々な職種・国籍・世代の人々が歴史的に交錯する複雑な池之端仲町において、この地の伝統技術や芸能あるいはアーティストたちを総合して「アーツ」、また、この地のナイトライフや労働者たちを象徴的に「スナック」と位置づけた。
 2人のアーティストには、「池之端仲町のアーツ」の一員としての立場から、「池之端仲町のスナック」という、この地に固有のエネルギー源を有すると考えられる不可思議な領域への入り口を切り開いていただいた。

 裂け目から顔をのぞかせたエネルギーの断片群は、2人のアーティストによって編集され、いわば未来の「劇場的都市空間池之端仲町」を予感させる前奏曲として、今後の演出に不可欠な重要なモティーフを複数提示している。
 今後様々なアーティストたちの仕事によって、提示されたモティーフが様々にパラフレーズされ、池之端仲町に住まう人々を最も輝かせる劇場的都市空間がドラマティックに演出されていくことを期待している。

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